石見銀山における間歩とは・・・
石見銀山遺跡は鎌倉時代の末期に周防の大内氏によって発見された銀山です。
江戸時代には徳川幕府の直轄となり、栄華の源といわれるほど繁栄をしていました。
かつては大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山と呼ばれていました。
その中でも現在でも一般に公開されている、銀鉱石を求めて掘られた龍源寺間歩とよばれる場所があります。
これは国指定史跡の抗道跡であり、石見銀山では坑道のことを「間歩」と呼ばれて親しまれています。
尚、石見銀山の間歩群には合計7つあり、「龍源寺間歩」をはじめ、「釜屋間歩」、「新切間歩」、「大久保間歩」、「福神山間歩」、「本間歩」、「新横相間歩」が国の史跡として登録されています。
今回はそんな石見銀山の坑道の中でも唯一公開されている龍源寺間歩についてご案内をしていきたいと思います。
龍源寺間歩とは・・・
江戸時代中期に幕府直轄の鉱山の御直山の五ヶ山の一つとして創業されていました。
昭和時代の発掘調査の結果、仙ノ山とよばれるところでは570近くの間歩が見つかり、坑口付近の建物の跡なども発掘がされています。
現在では坑道内部が見学でき、その杭道の跡が往時の様子を物語っています。
ここ龍源寺間歩では良質の銀鉱石が多く掘り出されました。
龍源寺間歩は全長約600mありますが、そのうち一般に公開されているのは273mです。
坑道の高さは1.6m〜2.1m、幅は0.9m〜1.5mとかなり狭い幅となっており、本当に人が通れたのかと疑いたくなるような幅です。
照明があるので、真っ暗というわけではありませんが、薄暗い間歩は往時の時代へタイムスリップしているような感覚です。
龍源寺間歩を歩いて・・・
杭道の中を歩いていくと、洞内にはノミの跡が当時のまま残っていてどこか時間だけが止まっているかのような不思議な空間でもあります。
鉱員の採掘された石炭の荷揚げや坑内の通気のために地上から掘られた垂直の穴である竪坑とよばれるものも残されています。
これは垂直に約100メートルも掘られたもので、往時の技術力の高さには驚きです。
また間歩の中にある電照板があり、島根県指定文化財(古文書)「石見銀山絵巻二巻」のうち15枚を掲げ坑道内作業の様子を伝えています。
この絵巻はまだ写真などがない江戸時代の当時の様子を伝える貴重な巻物です。
龍源寺間歩以外にも石見銀山には600を越える間歩があるといわれています。
龍源寺間歩よりももっと規模の大きい間歩や、露頭掘り跡がたくさん残されているのだとか。
この石見銀山は今は廃業となってしまいましたが、それだからこそ貴重な間歩といえるでしょう。