忘れてはならない原爆が投下された日のこと
毎年8月になると忘れてはならない事実、そしてそれを後世に伝えていかなければならないあの日のこと、それは原爆が投下された日のことです。
今回はこの悲惨な原爆はなぜ広島と長崎に投下をされ、その地が選ばれたのか。
その歴史的背景とともに原爆の投下について考えてみたいと思います。
忘れてはならない時間、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分−被爆者の遺品から見つかった時計にはその時刻で時計が止まっているものもあります。
この瞬間にたくさんの命が奪われ、そして戦後70年経った今でもその原爆投下によって被ばくした人たちの苦しみも同時に考えていかなければなりません。
広島に原爆が投下されることが決まるまでの過程とは・・・
1945(昭和20)年春から、アメリカは原爆の投下の目標都市の選定をはじめました。
できるだけ原爆の投下の効果が有効に働くようにと、直径4.8キロメートル以上の市街地がある都市にしようと決めていたといいます。
終戦も近づいていたこのころ、日本の主要都市はほとんど壊滅的な被害を受けており、その中で広島はまだ決定的な被害を受けていなかったことも選ばれた一つの理由でもあります。
そして広島の地形は山に囲まれていることにより、原爆の破壊力を存分に活かせること、また広島にはたくさんの軍事施設などがあったが、破壊されずに残っていたことも選ばれた理由の一つでもあります。
そして原爆が投下された日の8月6日の天気は晴天であったことによりその運命の日が決まりました。
急がれた原爆投下の背景とは・・・
実はこの原爆投下にあって、アメリカはかなりその計画を急いでいたといいます。
その一番の大きな理由は、日本をできる限り早く降伏させて、米軍の犠牲を最小限に留めておきかったというのが一番の理由に挙げられます。
またアメリカは対戦後、世界においてソ連よりもアメリカの権力を優位に立ちたいと考えていたこと、さらにアメリカは原爆という当時最新の新兵器を使うことで、その威力を世界に知らしめたかったというのが原爆の投下を急いでいた理由があげられます。
また原爆の開発にかかった膨大な費用をアメリカの国内に対して正当化したかったことも挙げられます。
被ばく者の高齢化に伴い、それを語り継ぐ人たちが次第に少なくなってきていることもまた事実です。
被ばく者ではない若者も、その悲しい事実に目を向けて、後世に伝えていく勇気もまた必要なのかもしれません。