モト旅行会社勤務が語る!日本の世界遺産の楽しみ方

姫路城の概要とは・・・

姫路城

 

姫路城は今から約670年前の1333年に播磨の赤松円心が護良親王の北条討伐の令に応じて兵をあげ、赤松円心の子貞範が築城したことがそのはじまりともいわれています。

 

しかしながら、黒田重隆と職隆が1555年から1561年の間に築城したという説もあり、いまだにはっきりとしたことはわかってはいません。

 

そして1580年から約420年もの間、豊臣秀吉が3層天守を築き、関ヶ原の合戦後、1601年に池田三左衛門輝政が現在の立派な5層7階の天守閣を築きました。


姫路城を維持するために城主の入れ替わりの激しい徳川時代

姫路城

 

徳川幕府の時代において、姫路城は西国の大名を統率する上で非常に重要な拠点とされていました。

 

そのため譜代大名をたくさん配置するとともに、城主が病弱であったり、幼く権力がない場合にはめまぐるしく城主をいれかえるなど、姫路城にとっては非常にせわしい時代でもありました。


明治時代になって競売にかけられた姫路城

 

明治維持の新しい時代の幕開けとともに1871年に廃藩置県が行われました。

 

姫路城の維持とその保存には莫大な資金が必要とされ、それを維持していくのは明治政府にとって非常に頭を抱える問題となっていました。

 

さらに築城してからの数百年の時が過ぎ、現在ほどの建築技術もなかったことから、その修復工事も必要となっていました。

 

そのため全国のお城を解体して、資金を回収すべく売りに出されたりもしていました。

 

このような考えはどこか現代社会にも同じようなところが感じられます。

 

そしてとうとう姫路城にもそのときが来てしまい、当時の資料から市内の金物商、神戸清一郎氏が23円50銭で落札したと記録が残されています。

 

しかしその解体にも姫路城は膨大な資金が必要であったことから、その権利を結果的には放棄してしまったといわれています。 

厳しい時代を生き抜いた姫路城

姫路城

 

明治時代には前述のように取り壊される運命にありましたが、中村重遠大佐の意見によって、山県有朋を動かし、陸軍省の力で姫路城は保存されることになりました。

 

そして昭和時代の太平洋戦争の爆撃をも逃れることができ、こうして今姫路城は美しい白鷺の宮として、訪れるものを魅了しています。

 

財政難にも陥った姫路城、そして取り壊す運命をも免れた姫路城、そして何百年もの間天災や、戦争からも難を逃れたこの生命力のある姫路城は確かにパワースポットといわれる所以がわかるものです。

 

 

今では世界遺産に登録をされて立派な姫路城にも、その背景にはたくさんの歩みとドラマがあったことを忘れてはいけないような気がしてならないものです。