姫路城の危機的背景
今はこうして美しい姫路城ですが、この美しい光景がみられるようになるまでに、姫路城にもさまざまな歴史的変遷がありました。
江戸時代が終わり、新しい明治時代の幕開けになると時代の推移とともに姫路城も無用の長物となっていきました。
特に廃藩置県が行われたことがきっかけとなり、姫路城は解体をされることとなります。
しかし姫路城を維持する費用が莫大にかかることから、姫路城は競売にかけられることになり、姫路市米田町の神戸清一郎氏が23円50銭で落札をしました。
氏は当初は姫路城の瓦や釘を再利用するつもりだったそうなのですが、思うように事が進まず結果的にはその権利を放棄してしまったといわれています。
そんな時に立ち上がったのが、中村重遠大佐であり、実は彼のおかげで姫路城は解体をされることがなく、危機を乗り越え、そして世界遺産に登録をされたことは非常に感動的なことでもあります。
そんな中村重遠大佐について考えてみたいと思います。
中村重遠大佐とはどんな人物なのか
中村重遠大佐は通称を進一郎といい高知の宿毛に生まれ、やがて同郷の中村儀平の養子となりました。
中村重遠大佐は少年時代には熱心に漢学を勉強し、宿毛文館の句読役になりました。戊辰戦争に従軍してからずっと陸軍一筋で、西南戦争が終わると陸軍大佐に昇進しました。
戊辰戦争では、宿毛出兵を説き機勢隊を編成しその責任者となり1871年(明治4年)には陸軍省の課長にまで就任した人物です。
中村重遠大佐に守られた姫路城
1874年に姫路城内三の丸広場に歩兵10連隊が設置され、一部の櫓や門などが取り壊される作業がはじまり、 大天守なども取り壊されそうな危機にぶつかりました。
そのすばらしさを、是非後世に残そうと立ち上がったのが、当時陸軍省第四局長代理であった中村重遠大佐でした。
そのため陸軍卿山県有朋に姫路城の存続を意見書を提出し、姫路城の保存が決定されました。
中村重遠大佐はまさに姫路城の恩人ともいうべき人物であり、その功績は後世に伝えられて、彼を偲んで記念碑がたてられています。
中村重遠大佐の記念碑
中村大佐の功績を称えて、「菱の門」には昭和19年に中村大佐顕彰碑がたてられています。
今ではこうして世界遺産に登録をされ、人々にその美しさとともに愛されるようになったのも中村重遠大佐のおかげともいっても過言ではないでしょう。
姫路城というとつい豊臣秀吉などの歴史的に著名な人物に目が行きがちですが、このように歴史的に影から支えた人物にも目を向ければ、姫路城の奥深い歴史を学ぶことができます。
ぜひ姫路城を訪れたら、中村重遠大佐の記念碑を見つけてみてくださいね。