法隆寺と聖徳太子
法隆寺、聖徳宗の総本山であり、法隆寺の前身が斑鳩寺であったことから別名も斑鳩寺ともよばれることがあります。
聖徳太子のゆかりの寺院であり、創建は607年ころとされているがはっきりとした確証はありません。
法隆寺は推古天皇と聖徳太子が、病をかかえていた父である用明天皇のために薬師像を祭り、病気の祈願のために建立したと言われています。
世界遺産に登録されている法隆寺は、世界最古の木造建築というその技術力の高さが評価されていながらも未だに解明されていない謎も数多く残されています。
それは法隆寺は一度再建されたという再建説と、再建はされず聖徳太子創建のままの姿を残しているとする非再建説とで論争が繰り返されてきました
。
今回はそんな法隆寺の謎と再建か非再建かの論争について考えてみたいと思います。
法隆寺は再建が非再建か
当初、法隆寺では聖徳太子創建のままであると考えられていましたが、明治時代の歴史学者は『日本書紀』にかかれていたある事実により、非再建に疑問を持つようになりました。
それは670年法隆寺焼失されたということが記載されていました。
670年4月30日の早朝に「法隆寺災あり一屋も余すことなし」と記されていることや、「和銅年間」(708〜714年)に「法隆寺を造る」という記載があることから、法隆寺は670年の火災以降に再建されたとする再建説が生まれました。
しかし、その一方で法隆寺の金堂などの建築様式が大化改新以前に用いられていた尺度とよばれる方法で設計されていることから、法隆寺は大化改新以前の建築であり、聖徳太子の創建当初のままだという非再建説が生まれました。
しかし1939年に現在の西院伽藍の南東部で、670年に火災に遭遇したとみられる若草伽藍が見つかり、これが火災で焼失した前身寺院に当たり、現在地に再建されたとする見方がこれ以降定着しました。
巨大な石が斑鳩寺に使われていて、基礎となっていることを象徴するかのように、大きな石がドーンと空き地に置かれており、かつてここに確かに斑鳩寺が存在していたことを伝えています。
そのため、現在の法隆寺は、斑鳩寺が焼け落ちてなくなってしまった後に、場所を変えて立て替えられたものという説、つまり再建説が定着し、そのため法隆寺は現在では再建とする説が有力とされています。
法隆寺の再建がいつはじまったのか。
実は法隆寺の再建についてははっきりとして年代はわかってはいません。
670年に全焼した斑鳩寺に変わって法隆寺は、斑鳩寺の北の丘陵地の山に造営をされました。
しかしながら、いつ再建にとりかかったのかということはわかってはいません。
まだまだ謎の多い法隆寺ですが、すべてがわからないこともまた法隆寺の魅力なのかもしれません。