白川郷の歴史と危機とは・・・
白川郷を訪れると何百年もの間、豪雪地帯にあるにも関わらず、この風景が守られていることに感銘を受けます。
きっとそこには地元の方たちの努力があるのだろう思わずにはいられないものです。
白川郷合掌造りの家々は、江戸時代の中期から昭和時代の初期の間に岐阜県の白川村と富山県の五箇山地区に造られました。
しかし実は白川郷にも度々存続の危機が訪れていたのです。
豪雪地帯であること、過疎化が進んでいくこと、火災、ダム計画などなど度々危機が訪れます。
今回はそんな様々な危機を乗り越えた世界遺産・白川郷について考えてみたいと思います。
第二次世界大戦後には、高度経済成長の時代を迎え白川郷もその例外ではありませんでした。
白川郷では養蚕産業が主な産業として栄えていましたが、化学繊維の普及や農業用水整備により、次第に養蚕業も廃業へ追い込まれていきました。
そのため合掌造りの意義がなくなってきたため、仕事を求めて次々に若者たちは村をでていきました。
さらに昭和36年に御母衣ダムの建設がはじめられ、300戸以上の合掌造り民家を湖底に水没するなどして人口はますます減少していきました。
白川郷の合掌家屋の多くが都会の料亭や民家園などに売りに出されて、なくなっていきました。そのため1924年に約300棟あった合掌の建物は、1961年には190棟に激減してしまいました。
危機感をもった人達の保護活動
昭和40年代に入るとこのままでは遠からず白川郷の合掌造りがなくなってしまうという危機感を抱き、集落内から保存活動が始まりました。
そしてその保護活動のはじめとして合掌造りを残そうという思いから、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。
荻町集落では昭和46年に保護をするための三原則として「売らない、貸さない、壊さない」を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、外観を壊す改装は行わないような気運が高まっていきました。
そして白川郷は様々な危機から立ち直り、世界遺産へ登録をされました。
世界遺産に登録をされた白川郷
国道156号線の改良事業も進められ、観光地として歩きはじめます。
国からの援助や世界遺産に登録をされた今、白川郷も人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりましたが、それとともに地元の方たちの熱心な保護活動にも支えられています。
世界遺産に登録をされた今、いいところばかり脚光を浴びがちですが、その歴史的背景やその変遷について考えるとより白川郷についての理解を深めることができるでしょう。
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